装飾
- Momoyo
- 2019年10月21日
- 読了時間: 2分
今年の一月に、鍵盤装飾音について、
ブログで書き始めた時に
歌の真似で一つの音を
一つ以上の音で表現する方法だった、
のかも、
しれない、
と書きました。
今日はその続きではないのですが、
(続き、いつか書きますね)
装飾って生活に
溢れているじゃないですか。
例えばアクセサリーを
つけようと思う時、
イヤリングも
髪飾りも
ペンダントも
ブローチも
スカーフも、
というふうにつけると、
大抵は過剰じゃないですか。
でも、どこまでが
過剰じゃないのか。
例えば、真っ黒い服のような、
土台があれば、
パンク風に全部装飾しても、
様式美が現れるかもしれない。
何も飾らない、
ということが一番の美である場合もあるし、
ほんの少し装飾したことが
その土台をとても引き立てることも
ままある。
今日は、一年のうちで、
物理的にも心理的にも
装飾過剰になりがちな、
クリスマスのパーティの話を
していました。
自分の義理の家族が集まると、
割に大人数なこともあって、
心理的に、私はあまり場所を取りたくない。
でも自分らしさを
出さないことで、
全体の幸せを
増加させることができるのか?
それとも
自分らしさを出した方が、
全体の幸せが
倍増するのか?
自分の存在意義にまで
及ぶ、命題。
自分の義理の妹を
私の家に招待したと想定して、
彼女が思い切り楽しんでいたら、
私は嬉しい気持ちになるなあ、
と、思います。
寂しそうに静かにしていたら、
全体として幸せな感じはしません。
でも自分が義理の家族として
大勢の中に出席している時は
できるだけ義理の家族の
邪魔をしない。
そんな感じに、つい
「楽な方」に流れやすい。
これはクリスマスパーティ
というものの過剰さから来る、
「私は、控えておこう心理」
だと、私は思います。
馬小屋で生まれたイエスを
お祝いしに行く心理に
近づきたいのはわかるが、
でもただやたらシンプルに存在すればいい、
ということでもない。
十月の中頃になると
ぼちぼちクリスマスパーティに
ついて話すのがベルギー流なので、
そのことを考えています。
「どんな会にしたいか?」
考えて、きっかりのところを見つけたい。
過剰になる半歩手前を、
安易に設定するのではない。
少し過剰な方が
良いおもてなしだと
決めてかかるのではない。
「ここがちょうど良い」
と、思うところを
一度真剣に考えてみたいです。
音楽と同じみたいです。
そう。
今年は、家族パーティの
持ち回りが我が家に
なると思われるので、
家族三人で話し合ってみました。
みなさんの、
「ちょうど理想の親族の集まり」
は、どんなものですか。