敗者復活
- Momoyo
- 2021年8月5日
- 読了時間: 3分

私は2000年にマーストリヒトの国際オルガンコンクールで多分、4位でした。多分、というのは、3人しか決勝に行けなかったからで、4位から6位の人は何位だかもちろんわかりません。何人かの審査員の先生に、準決勝の三つのオルガンでの演奏のうち、一つ目の演奏、リエージュでのスウェーリンク、二つ目の演奏、アーヘン(エクス・ラ・シャペル)でのメシアンは「最高だった」と言ってもらった、素敵な思い出のあるコンクールです。でも素敵な記憶の中で、3つ目の演奏、マーストリヒトでのバッハ演奏が、ある先生に徹底的に批判され、結果として落とされたことは、今思えば人生の教訓、人生のやる気の泉、ひいては人生の宝になっています。
だから私はこの時の思い出を心の中から取り出した時に、苦い気持ちばかりにならないように、自分の中で「4位だった」と、順位を勝手に立候補することにしました。もちろん履歴書には書かないし、そんなこと誰も気にも留めないのだから別にいいし、少なくとも、夫や娘や周囲の期待してくれた人たちは「惜しかったなあ」と悔しがってくれて「4位だよねきっと…」と言ってもらったことがきっかけです。そのことだけでも一生分の苦労が慰められるぐらいの体験でした。そんなに自分のことを思ってくれる人がいたと、初めて言葉で耳にして知ったからです。
昨日練習に行った教会は、この準決勝のバッハを弾いたオルガンでした。演奏を依頼された時は、2番目の写真のオルガンで小さな作品を弾く予定だったので、コロナの影響で私は敗者復活戦の機会を得た気がしました。聴衆を小オルガンの周りに集めると密になるから、と一年延期になった昼コンサート・シリーズは、夜コンサートと同じ、大オルガンに変更になったのです。
私はこのコンクールが終わった時、年齢的に自分が三十二歳、娘が三歳で、家庭内世代交代を感じていました。自分のことはまだ心配なのですが、娘のことの方がよほど興味があるのです。賞は取らなかったけれどやりたいと思う演奏をきちんと仕上げて、本番としては一番厳しい状況で自分はできたかな、と思えたのだと今は思います。そして全部で6回参加した国際コンクールへの挑戦は、打ち止めになりました。
自分の教会のオルガンがその年修復が終わったことも関係あると思います。その年からランディ・ドルグを毎週月曜日に主催するようになって、勉強の場が移行しました。
こうして21年ぶりに、当時色々な思いが溢れたオルガンに戻ってみると、今でもこうして素晴らしい音色で鳴り続けていてくれることに畏敬の念が湧きました。その楽器をコンクールや演奏会の企画をしながら維持している教会、教会オルガニスト、マーストリヒトの街に感謝しながら、来週の演奏会を楽しんでこようと思います。
桃代

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